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041 横浜公園 P10 2002年
チャーチル会の写生会で横浜公園の池を描きました。隣接のスタジアムでは高校野球の神奈川県大会が開催されていた時で、頻りに両軍の応援の声がスタジアムの上の方から降り注いでいました。
途中、池で洗濯をしていた上半身裸の野宿者が話しかけてきて、1時間程お相手をしながら描きましたが、どんな話をしたか覚えておりません。
※横浜公園の池
長い間教会として米軍に接収されていましたが返還され、その跡に池を作ることになりました。災害時の貯水池を兼ねた防災池で池底は鉄板で出来ています。私の造園設計者として最後の作品になりました。大学同期の佐藤安春氏が当時の公園部長で、池の大きさで意見が合わずだいぶ議論しました。
彼は近寄って初めて池が在るとわかる程度でいいのだ、と、私は横浜公園の敷地バランスから、既存樹木も池の中に取り入れてしまう位の大きい池が良いのでは?と。結局私の考えていた大きさの半分ほどになり、流れを既存樹木の間を縫って通すことで水の面積を増やす折衷案で決定しました。池の真後ろが、以前のチャペルの入り口で樹木もなくぽっかり広い空間になっていたため、その部分を滝の流れ出る山に見立てるのに苦労致しました。
「造園は四次元の芸術である」と云われていますが、20数年を経て何とか当初考えていた環境になり、市街の騒音も軽減され静かで落ち着いた一画になりました。 -
042 夏の終わり F20 2002年
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043 大榎木 P10 2002年
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044 桃源台の紅葉 F6 2002年
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045 ダンス衣装 P12 2002年
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046 雪解けの田代湿原 P12 2003年
上高地は何回か訪れておりますが、これはエラン会有志で二回目に行った時のものです。釜トンネルの開く初日に行きました。残雪も多く「田代池」付近の木道にも積雪がしっかり残っており、4~5歩降りた雪の中で描きました。背後の狭い木道を団体の観光客がゾロゾロと歩きながら私の絵を覘いていきます。「キャー」と云う叫び声で振り向くと御婦人の一人が足を滑らせて木道から落ちてしまいましたが、落差が殆ど有りませんので怪我はしませんでした。「絵に見とれて落ちちゃった・・・絵の上手な人は羨ましいゎ」と嬉しいお言葉でした。何人かはわざわざ傍に降りて来ていろいろ話し掛けられたりもしました。午後からは湿原の雪がみるみる融けて、黒い地面の面積が大分広がっていました。
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047 梓川雪解け M10 2003年
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048 田代池 F10 2003年
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049 釧路湿原 M8 2003年
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050 正月の忍野 P12 2004年
050~052 家族で箱根駅伝を応援に行き、エラン会やチャーチル会の写生会で度々お世話になった「ホテル箱根アカデミー」に宿泊しました。復路のスタートを元箱根で見送ると、後は何もすることが有りません。そこで大晦日に積もった雪景色を当てにして忍野に行くことにしました。途中の幹線道路は除雪されておりましたが、忍野に入ると除雪されていない道路も多く、ノーマルタイヤでは難儀しました。しかし忍野の雪景色は想像した以上に素晴らしく、良いチャンスに訪れる事ができました。忍野八海は観光客が多くスケッチは出来ませんでしたが、私が穴場にしている下流の藁屋根のある辺りは静かで、良いロケハンが出来ました。小さな4号を後日何枚も描きましたが、大分差し上げてしまい、残った絵は3~4枚になってしまいました。
※ホテル箱根アカデミーは中央学院大学の箱根駅伝の選手と応援団が定宿にしており、3日の復路の朝は4時頃から準備をしている様子でした。
※穴場にしている下流の藁屋根群のある場所は、私が初めて忍野に行ったときにたまたま昼食で飛び込んだ、ほうとうの店「いろり」の女将さんに教えてもらった場所です。この店の壁にテニアン島の地図が貼ってあり、ほうとうの薬味の唐辛子もテニアン島に自生する激辛の唐辛子が用意されておりました。一般の来客は気付かないでしょうが、地図も唐辛子も私には一目でわかりました。と云うのも、戦時中私の父親がテニアン島で教員をしており、昭和19年に玉砕してしまいました。そのため遺骨収集や家族旅行で何度かテニアン島を訪れておりましたので、それらは既知の事でしたので吃驚いたしました。お聞きすると「いろり」のご主人が修行していた店の親方がテニヤン島に関係のある方と云う事が判明しました。不思議なご縁を感じ、以来忍野に行くたびによくお邪魔しておりましたが、最近は忍野自体に行くことが無くなってしまいました -
051 忍野藁屋根 P12 2004年
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052 藁ボッチと富士 F4 2004年
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053 相模原公園 M10 2004年
チャーチル会写生会で神奈川県立相模原公園に行った時の作品です。丁度梅の花が咲いていましたのでそれをモチーフにしました。梅園と云うほどの規模ではなく素人が絵に描くのに丁度良い加減の本数だ、と思って描きましたがなかなか難しいもので、以降梅を描くのは止めております。
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054 舞岡公園 M12 2004年
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055 軽井沢雲場池 F6 2005年
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056 白い花の咲く頃 P10 2004年
2004年春のチャーチル会一泊写生会で、日野春での作品です。11時頃から描き出しましたが、遠くに嫌な雲があるなァと思いつつ描いておりました。2時間程描いた処でその予感が当たり突然の大雨になってしまいました。絵を濡らしてはいけないと思い裏返して、道具類を片付けて居りましたところへ、ご指導の高專寺赫先生が廻って来られ「今泉さん、絵を裏返したらキャンパスに塗ってある膠が流れてしまう。描いた方は後で拭けば良いから表にしなさい」と云われ、初めてそのことを学んだ作品です。「風景画家の宿」志満屋旅館に戻り、拭いてから残り3分の1を描きましたが、対象物を見ずに描くのは難しく手前の草原を省略して道路にしてしまいました。それを見て、今は天国会員になられた原 孝さんが「今泉さんは庭造りだけでなく、道路も創るンだ」と半分あきれ半分感心されていた事を思い出します。
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057 ナポレオン F4 2004年
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058 トルソーのある静物 F10 2004年
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059 早春 F12 2005年
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060 5月のせせらぎ公園 P10 2005年
仲町台せせらぎ公園の池の傍にある古民家です。ゴールデンウィークの休みを使用して描きに行きました。新緑の林を背景にして古民家の横には鯉のぼりが連ねて掲げられており色味を添えています。
※せせらぎ公園の池 私が昭和48年に㈱環境造園を設立して間もなく、住宅都市整備公団(現UR都市機構)から内山緑地建設㈱がこの池の造成工事を受注しその下請けで当社が施工した思い出深い場所です。工事は池の造成が主な作業で、古民家やその他の施設はその後逐次整備されたものです。港北ニュータウンの開発で道路網や付近の施設が新しく整備され、田舎道を使って作業していた当時のイメージでは、最初と違う場所かと思ったほどの周辺の変わり様でした。 -
061 竹秋の長瀞 F4 2005年
5月の長瀞です。新緑が色を濃くする時季ですが、丁度その頃竹は葉の入れ替え時期で黄変します。周囲の緑とのコントラストが美しく小さな絵にしてみました。その後これを元に少し大きめの絵にも致しましたがその元絵です。大きな絵は皆お嫁入りしました。
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062 真鶴漁港 P12 2005年